漸く慣れてきたとは言っても、やはりあそこに行くのは気が進まない。
廊下を歩きながら、警視庁捜査一課所属の刑事、坂本昌行は一つ小さな溜息を吐き出した。
なんか俺、どう考えても貧乏くじを引いてる気がする。
心の中で独りごちると、溜息がもう一つ出た。
手には今回の事件の鑑識結果を纏めた紙の束がある。
彼の使命はこれを、警視庁科学特捜班、通称STに届けることだ。
坂本はこれから行く先に待っている一癖も二癖もある連中に付いて考える。
と同時に、そんな変人と言ってしまっても差し支えない連中を、
必死で纏めようとしているかつての友に付いても考えた。
あいつは、自分が貧乏くじを引かされたと思っていないのだろうか。
脳裏に浮かぶのは、いつもふんわりと微笑んでSTを見守っている姿だ。
そのイメージに、あいつなら思っていても決して口にも表情にも出さないだろうなと納得した。
STの纏め役を任されている長野博はそういう人間だ。
今も昔も彼の姿勢は変わらない。
変わったのは、きっと。
(俺のほうなんだな・・・)
坂本の口元に、自嘲を含んだ苦い笑みが薄っすらと浮かんだ。
目的の部屋の前に辿り着き、坂本は足を止める。
見上げると、ドアの横に小さく「ST」の文字。
坂本は手に持っていた紙の束を抱え直し、軽くドアをノックした。
しかし、通常すぐに開かれるドアが今日に限って開く気配を見せない。
まさか誰もいないのだろうか、いやでもそんな筈はともう一度改めてノックをしてみた。
コンコンと妙にノックの音が耳に付く。
すると、今度は反応があった。
ノブが回り、ドアが開かれる。
なんだちゃんといるんじゃねえかと心の中で毒づきながら、持っていた紙の束を相手も見ずに差し出す。
「鑑識の結果を持ってきた。ここから犯人像を探り当てるのはお前らの仕事だ」
意見が纏まったら報告してくれと続けて、グイっと相手の胸元に押し付けたそれは、
けれどもいつもなら「分かりました」と丁寧に受け取られるのに今日は違った。
「分かったよ。ったく、俺達は探偵じゃないって毎回言ってるのに」
しかも聞こえてきたのも別の声。
坂本は驚いてやっと視線をしっかりと目の前の相手に向けた。
そこに立っていたのはSTに所属するメンバーの一人、井ノ原快彦だった。
確か担当は法医学。
人が集まる場所での沈黙を極度に恐れる余り、どこでもかしこでもうるさいため、
いまだに坂本の中の井ノ原の印象は良くはない。
だが、おしゃべりではあるが実はそれ程人懐こいわけでもない彼が、坂本の応対に出るなど今まで無かったことだ。
坂本は僅かに驚き、そのまま視線をその後ろに動かした。
部屋の中には、森田剛、三宅健、岡田准一の姿がある。
そこまでは普通だが、もう一人の姿が無い。
坂本が、嫌だ嫌だと思いながらSTのために動く理由の大半を占める、長野の姿が見えない。
時刻はまだ十分に勤務時間内である。
この時間に長野がいないのはあまりに不自然だ。
彼一人で聞き込みに行くことは無いだろうし、
直属の上司である東山は本日出張で不在だから呼び出されている可能性も考えられない。
席を外しているだけだろうかと確認したホワイトボードの行き先が、
長野のみ「帰宅」になっていることに気が付いた。
「長野は?」
「帰った」
端的に井ノ原が答えを返す。
「帰った?」
「うん。正確には俺達が帰らせたんだけどね」
そうそうと、井ノ原の言葉に部屋の中にいる森田、三宅、岡田が揃って頷いているのが目に入った。
「帰らせたってどういうことだ?」
坂本がむすっとしてさらに問い掛ける。
この強面の顔に浮かべられる不機嫌さは、時折一課のメンバーでさえ近付きたくないと避けるのだが、
変人揃いのSTは誰一人怯まない。
「熱があったんだよ」
井ノ原の後ろから三宅の声が飛んできた。
「なんや、朝からあんまり体調が良くなかったらしいんやけどな。
昼過ぎに熱が上がって辛そうやったから帰ったほうがええって、みんなで言うてん」
三宅に続いて岡田がそう説明する。
坂本はますます不機嫌を露にした。
「・・・熱だと?」
「多分あれ、38度はあったと思うぜ」
ぼそっと森田が付け足した。
なんでそんなことが分かる?ここに体温計など無いだろう?と言い掛けて、
坂本は発言したのが森田であることに気付いて抗議の言葉を飲み込んだ。
STの化学担当である森田の嗅覚が異常に発達していることに思い至ったからだ。
彼なら、熱による発汗などを嗅ぎ取ることも朝飯前だろう。
「そうか、分かった」
坂本はそれ以上突っ込まなかった。
纏め役の長野がいないとなると、自由過ぎる彼らがどこまで真面目に仕事をするのか怪しい物だが、
だからと言って、坂本が代わりに彼らを監視するなんてことはごめん被りたい。
「とりあえず、お前らは仕事をしろ。さぼるんじゃねえぞ」
そう言い残してさっさと立ち去ろうとした坂本を、けれど、井ノ原が呼び止めた。
「ちょっと待って、坂本君」
「何だよ。お前らの分析には付き合わねえぞ」
あからさまに顔を顰めた坂本に、井ノ原が首を振る。
「違うってば。誰も坂本君にそんなことは期待してない」
「だったら、何だ?俺は忙しいんだ。言いたいことがあるなら早くしてくれ」
「あー・・・」
明らかに不機嫌のボルテージを上げた坂本を目の当たりにして、井ノ原は困ったようにガシガシと自らの髪を掻いた。
そうしてから、ほぼ同じ身長なのに妙に上目遣いで坂本を見上げた。
「・・・坂本君、やっぱり忙しいの?」
「当たり前だろ。殺人事件の捜査中だぞ」
「・・・抜けるのは難しい?」
「聞くまでもないな、そんなこと」
「そっかー。そうだよねー。困ったなー」
どうするー?と、井ノ原は背後の3人を振り返る。
「お前ら、俺に何かさせたいのか?」
先の見えない話を聞くのは無駄な苛立ちを感じさせる。
持って回った言い方をするのがSTの特徴なのかもしれないが、自分は長野とは違うのだ。
うだうだといつまでもこいつらに付き合う気は毛頭無い。
と、またもや井ノ原の後ろから三宅の声が飛んだ。
「坂本君に、長野君の様子を見に行って欲しいの」
「・・・長野の?」
「そう。ほんとは俺達の中の誰かが行こうかって話してたんだけどさ。
坂本君も知ってる通り、俺達ってみんな生活能力が無いんだよね」
三宅の顔に苦笑が浮かぶ。
その点に関しては、坂本にも異論は無かった。
人付き合いにもそれぞれが大きな問題点を抱えるこの4人は、揃いも揃って生活能力のレベルも最低に等しい。
己の生活だけならどれだけだらしなくても本人が我慢すれば済むのでいいだろうが、
熱を出している人間の看病には向かない。
さらに熱を上げてしまうようなことをしでかさないとも限らない。
さすがに本人達もそのことはよく理解しているようだった。
「長野君、官舎で一人暮らしじゃん。
多分あの状態だと病院に行く気力も無さそうだったし、心配なわけ。
というわけで坂本君、俺達の代表として長野君の様子を見てきてよ」
「なんで俺が」
「だって、坂本君、料理とか掃除とか得意なんでしょ?」
坂本の抗議は、三宅によって簡単に遮られた。
て言うか、なんでこいつらが俺の得意分野を知ってるんだ。
「長野君が言ってた」
「は?」
今度は別の場所から別の声が上がった。
森田だ。
そのきつめの視線が坂本に注がれる。
まるで睨み付けているような視線のまま、森田はぼそぼそと続けた。
「長野君がいっつもあんたのことを誉めてた。坂本君は料理も掃除も得意なんだよって」
「長野が・・・」
まさかそんなことを長野が言っていたなんて初耳の坂本は、思わず言葉を失う。
さらに岡田が口を開いた。
「坂本君のことを話す時、いっつもすごい幸せそうな顔しとったで」
やから行ったってやーと少々甘えたな口調で言う岡田に、坂本はますます顔を顰めた。
期待の籠もった4人の視線に晒されているのが居心地悪い。
坂本は強制的に彼らに背を向けた。
「ちょっと、坂本君!!」
井ノ原の呼び掛けにヒラヒラと手を振り、その鼻先で部屋のドアを閉め、一課に戻るために歩き出す。
しかしながらその足は、廊下を曲がったところで止まってしまった。
『うん。正確には俺達が帰らせたんだけどね』
『熱があったんだよ』
『多分あれ、38度はあったと思うぜ』
『坂本君のことを話す時、いっつもすごい幸せそうな顔しとったで』
たった今聞かされた言葉の数々がグルグルと頭の中を回る。
ああ、くそっ。
絶対これって貧乏くじだろ。
そう思うのに、再び歩き出した坂本はすでに、早退する理由を考えていた。
ここに来るのは何年振りだろうか。
長野の部屋がある7階に向かうエレベーターの中は、坂本以外の人間の姿は無かった。
増えて行く回数表示を見上げながら、途中で寄ったスーパーで仕入れた食材が入った袋を持ち直す。
ガサリと中身が動いて静かな鉄の箱の中に音を響かせた。
エレベーターは途中どこにも止まらず、ストレートに7階に到着した。
開いたドアから降りて、静まり返った廊下を歩く。
坂本の足音だけが鉄筋コンクリートの建物内に反響していた。
かつては自分の家のように入り浸っていた部屋の前で、チャイムに手を伸ばし掛けてはたと考えた。
熱を出して早退したらしい長野は、恐らく寝ているだろう。
そんな状態の彼を起こすのは忍びない。
しかし、そっと回したドアには鍵が掛かっており、
合鍵は長野と距離を置くと決めた時に返してしまっていたから、やはりチャイムを鳴らさないことには部屋にも入れない。
坂本は仕方無く、チャイムを押した。
すぐには返事が返って来なかった。
部屋の中の音に耳を澄まし、根気強く待つ。
あまりに長い間応答無しならもう1度押すか、
そうか手紙でも付けてこの食材の入った袋をドアに掛けておくかと思考を巡らせていると、
ゴソゴソと微かな音が聞こえてきた。
次いでガチャリと鍵を開ける音がして、「はい・・・」とドアが開けられた。
「・・・よお」
元から色の白い顔が、熱のせいか青白く見えるパジャマ姿の長野に、坂本はどう対応しようかと迷った挙句、
おずおずと軽く手を上げて挨拶した。
長野がその長い睫に縁取られた潤んだ大きな瞳を見開く。
「・・・さかもと、くん?」
「おー」
ケホっと長野が小さく咳き込み、「どうしたの?」と当然な疑問を発した。
坂本は敢えてその疑問には答えず、そっと空いている左手を目の前の男の額に当てる。
外を歩いてきたから若干冷えている手の感触が気持ちいいのか、長野が目を閉じた。
「熱、かなり高いのか?」
「・・・計ってない」
目を閉じたままの長野が呟く。
「計ってないってお前な・・・」
「・・・実際の数字を見たら落ち込むもん。だから、計ってない・・・」
閉じられていた瞳が開いた。
坂本の姿を見止めて見開かれた時より間近で見ることになったその瞳は、かわいそうなくらい潤んでいた。
(だいぶ高いな、これは)
心中独りごち、「入るぞ」と一言断って部屋の中に足を踏み入れる。
素直に体を避けた長野に、「お前は寝てろ」と命令し靴を脱いだ。
廊下に上がり、まだはっきりと部屋の内部レイアウトを覚えている自分を自覚しながら、
坂本は真っ直ぐキッチンに向かう。
その背中に、長野の声がぶつかった。
「・・・もしかして、あいつらに聞いたの?」
「ああ」
キッチンのドアに手を掛けながら答えた。
「そう・・・」
「何か食ったのか?」
ドアに手を掛けた状態で振り返り質問すると、長野が小さく首を振る。
「薬は?」
また長野が首を振る。
「分かった。どっちも準備するから待ってろ」
「え、でも・・・」
「お前は寝てろっつったろ。ほら、早く寝室に戻れ」
しっしっと彼を起こしたのは自分であることを棚に上げ追い払う仕草を見せると、
長野は何か言いたげな表情を見せたが、諦めたのかおとなしく寝室に戻って行った。
それを見届けて、キッチンに入る。
買ってきた物が入った袋をテーブルの上に置き1つ1つ出してから、
流しの上の棚を開けて小振りの土鍋を取り出した。
これから作るのは、ネギと卵を入れたお粥だ。
坂本は手を洗ってネギを切り始めた。
コンコンと軽く寝室のドアをノックして、だが返事は待たずにそれを開けた。
お粥の入った土鍋、茶碗、スプーン、水の入ったコップ、風邪薬を乗せたお盆を手に、
足音を立てないように意識しながらベッドに近付く。
ベッドに横になっている長野は、目を閉じていた。
完全に眠っているのならさっき1度起こしてしまっている手前、さらに起こすのは躊躇われる。
起きたらこれを温めて食べて薬を飲めと置手紙をしておこうか。
と坂本が考えていた時、重たげに長野が瞼を上げた。
僅かに焦点の合っていない瞳がゆっくりと瞬きをして、ベッドの側に立っている坂本を捉えた。
坂本はお盆を持ったまま腰を下ろし、声のトーンを落として聞いた。
「起きられるか?」
「うん・・・」
お盆を床に置き、体を起こす長野を支えてやった。
手早く背中に枕を入れて、そこに凭れさせる。
「これ、少しでもいいから食え」
そう言って、茶碗に土鍋から出来たてのお粥をよそって渡す。
「熱いから気を付けろよ」
長野は、茶碗とスプーンを坂本から受け取り、ふう・・・と息を吹きかけ冷ましてから、
少しずつお粥を口に運び始めた。
コクンと一口目が飲み込まれる。
「・・・おいしい・・・」
「なら良かった。全部食えるなら食っていいぞ。食い終わったら薬だ」
「ありがとう・・・」
茶碗とスプーンを持ったまま、長野はふわっと笑みを零し、潤んだ瞳で坂本を見た。
そのどこか無防備な姿に、坂本の中にかつて長野と友達付き合いをしていた頃に持っていた親愛の情が湧き上がり、
思わず腕を伸ばして熱のある体を抱き締めそうになり、はっとして思い止まった。
そんな坂本の葛藤になどまるで気が付かない長野は、茶碗によそわれたお粥を半分まで減らし、「坂本君」と呼んだ。
「どうした?」
「・・・ごめん。おいしいんだけど、これ・・・」
「それ以上はきついか?」
問い掛けに小さな首肯が返される。
「ほんとにごめんね・・・。置いといてくれたら後でまた食べるから・・・」
申し訳無さでいっぱいの表情を浮かべる長野の頭を、ポンっと安心させるように軽く叩く。
「気にすんな。冷めたら冷蔵庫に入れておく。食う時は電子レンジで温めればいい」
ほら、薬飲めと、茶碗とスプーンを奪い代わりに薬と水の入ったコップを手渡す。
まだお粥が残っている土鍋に蓋をしている間に、長野は薬を飲んだようだった。
「飲めたか?」
「うん・・・」
「じゃあ、寝ろ。風邪は食って寝て治すのが1番手っ取り早い」
背中に挟んでいた枕を戻し、長野がベッドに横になるのを手伝って布団を体に掛けながら、
坂本はぶっきらぼうに続けた。
「あいつらも心配してたぞ」
「・・・大丈夫って言ったんだけどね・・・」
「どこがだよ」
「・・・醜態だな・・・」
ポツリとまるで独り言のように長野が呟いた。
「長野・・・」
「だって、そうでしょ」
長野の潤んだ瞳に坂本が映り込む。
青白い顔で長野が悔しそうに表情を歪めた。
「・・・健康管理もまともに出来ないなんて・・・、醜態以外の何物でもない。俺は・・・」
「辞めろ」
坂本は長野の言葉を勢い良く遮った。
それ以上、彼が彼自身を責める言葉を聞きたくなかった。
けほっと長野が咳き込んだのを合図に、「もう寝ろ」と吐き捨てる。
「今はとにかく寝ろ。グダグダ考えるのは熱が下がってからだ」
坂本の発言に反論は無かった。
と言うよりも、熱の下がらない状態で言葉を紡ぐのが辛くなったのかもしれない。
長野の瞳が静かに閉じられる。
程なくして、小さな寝息が聞こえてきたことにほっとした。
今だけはいいだろうか。
君が元気になるまでは、このまま、傍にいてもいいですか。
誰にともなく心の中で問い掛けて、坂本は血の気を無くした痛々しい長野の頬に手を伸ばしそうになる己を戒めながら、
その寝顔を見つめ続けた。
終