いつもの夜の最後のキス

<堂×郁 別冊Ⅰ 5章後>


定時ちょうど。
その日の仕事を終えると、二人は足早に基地を出た。
今日は公休前日、明日からは数日間の連休。
にも関わらず二人揃って定時ピッタリに上がらせてもらえたのは、仲間たちのあたたかな気持ちの表れに他ならない。

時間はあまりない。

電車で数駅先の、幾分か都会の駅に降り立ち、目的の場所を訪ねる。
用意していたものを託し、先方に頼んでおいたものを確認する。それから最後の打ち合わせ。
明日よろしくお願いします、と二人で頭を下げると、それ以上に丁寧にお辞儀を返される。それがくすぐったくて二人で顔を見合わせると、もう一度会釈して退出した。

公休前日だけど、外泊は必要ない。

電車で数駅の武蔵境駅に戻り、夕食を食べに行く。
向かったのは駅前にある居酒屋。二人のデートでも、柴崎たちともよく利用する使い勝手の良い店の、奥の個室。
いつものように堂上はビール、郁は軽いカクテルを1杯だけ。
いつものように二人の間のテーブルの上には、二人前とは思えない量のお皿が並び、それを笑いながら二人で食べる。

何かの拍子に郁がむくれ、ぷぅと頬を膨らます。
向かいから伸びた手がポンポンと頭の上で跳ね、苦笑しながらすまん、と謝る。そのまま頬も撫でられれば、ふくれっ面は萎み、また翳りのない笑みに変わる。
多すぎに思えた料理も綺麗に平らげ、今後のエンゲル係数についてちょっと真面目に考える。
腹を空かせない程度の甲斐性はある、と堂上が言えば、あたしは食べ盛りの子供ですか!と郁がまた怒る。

でもそんな言い合いさえくだらなくて楽しくて幸せで。
結局また笑い、最後に郁はデザートで締める。美味しそうに頬張る郁を、堂上は目を細めて眺める。


そんないつもの光景。


食べ終わった二人は手を繋いで、元来た道を戻る。
郁は終始ご機嫌で、堂上の半歩先を軽やかにふわふわと歩く。握る手を強めながら酔ってないか、と問えばコクンと頷く。その瞳はさほど揺れていないので酔ってはいない。
詰所をくぐって基地に戻ると、手を繋いだままぐるりと寮の周回コースを歩き、逢瀬の場所に向かう。
いつもの官舎裏まで辿り着くと、今度は両手を互いの背中に回しあう。

優しく抱き締めあって、どちらからともなく顔を近づけ、そっと口づける。
重ねるだけの優しいキス。
息が溶け合う頃、それは深さを増していき。
背中に回していた郁の手は堂上の腕辺りの服を掴み、堂上の手は支えるように郁の後頭部と腰に回されていた。


いつもの場所で、いつものキス。
違うのは。


「……きょう、かん」

唇が離れたところで、郁の口から洩れたのは甘い息と堂上を呼ぶ甘い声。
背中を撫でていた堂上の掌が頭に回り、郁の色素の薄い柔らかな髪の毛を梳くように撫でる。

堂上の提案を受け入れた日から、呼び間違う度に訂正を繰り返していたその名を。
現在進行形で業務中も使用し、郁にとってはこちらの方が呼び慣れているその呼び名を、今日は堂上も一度も咎めなかった。
許されているのを分かっていて、郁も今日だけはそのまま呼び続けた。

雲のない夜空にぽっかりと浮かんだ月が明るく光を落とす。
月明かりのせいで、暗闇に紛れるはずのこの場所でも、互いの表情をくっきりと浮かび上がらせた。

「郁…」
髪を撫でていた堂上の手が頬に移り、そのままピタリと当てると。
郁はその手にすり寄せるように頬を押し付けた。その猫のような仕草に、思わず堂上の口からくくっと漏れる。
「どうじょう、きょうかんの手、きもちい…」
聞かせるともなしにそんな言葉を呟きながら、郁は目を閉じた。
気持ちいいと言われたその手で、堂上はそのまま郁の頬をさする。それから手が離れると、郁はまた堂上の胸の服を掴んできゅっと抱きついた。額はぽすんと目の前の肩に預ける。

「……明日、ですね」
「ああ、明日だな……緊張してるのか?」

あえてからかうような口調で言えば、肩に預けたままの頭を小さく振る。

「緊張…してるのかなぁ、分かんないです。でもなんだかそわそわして、ドキドキして、」
「まあ落ち着かないのは俺もだ」
「教官も?」
顔を上げてさも意外なように反応されると、堂上も苦笑するしかない。
「俺をなんだと思ってるんだ。こんな日ぐらいは緊張するさ」
「えへへ、そっか。教官もか。ならいいや」
そう一人ごちると、また堂上に身を預けるようにもたれかかった。それを両腕で包み込みように抱きとめる。


明日。
正確には、後2時間ちょっとで日が変わると、今日にはもう。

二人の結婚式。

1か月に渡る冷戦、堂上のプロポーズらしき「提案」。それから怒涛のように月日は流れ、駆け足で準備をし、ここまで来た。
感慨深かったのかもしれない。少しだけ切なかったのかもしれない。
大きく何かが変わる明日を前に、郁が今日だけかたくなに「堂上教官」と呼び続けた心の内を、堂上はそれとなく気づいていた。

当日はとてもじゃないが慌ただしくて無理だ、という先輩既婚者のアドバイスを元に、入籍は少し前に済ませた。
だから郁は、戸籍上はすでに「堂上 郁」だ。
でも何となく、その書類を提出した後も何となく、実感は湧かないままだった。

申し込んでいた官舎の鍵をもらうと、二人の荷物は効率よく寮から運び出していった。
一人部屋をキープし続けるのは悪い。と堂上が一足先に官舎に入ると、それからは公休前日以外にも官舎に泊まりながら、式の相談や二人の時間を過ごすことになり。
そして挙式を前に、郁も退寮。正式に二人は夫婦として、官舎の2階が住処となった。
実感の湧かなかった入籍も、夫婦と言う単位も、環境が変わって少しずつ現実のものと受けとめられるようになった。

少しずつ、いつもと違う事が日常になっていく。
そうやって変わっていって、それがまた「いつもの事」になっていく。

だけど今日。
郁が帰るのは、官舎ではなく寮。

―――――家からお嫁に行くように、あたしも住み慣れた此処から朝出発したいんです。

何かの決心をしたように、郁が堂上に訴えたのは先週だった。郁の此処とはつまり寮のことであり、柴崎と共に暮らし続けた部屋のこと。 その申し出を、堂上はやはりどこか当たり前のように受け止めた。
郁が結婚や二人暮らしに前向きなことも楽しみにしている事も、同じくらい不安なことも柴崎と離れるのが寂しいことも。そしてその思いは同室の親友も同じように抱えながら、決して口には出さないことも。それは一番近くで見ていて、しっかりと伝わってきた。

柴崎よりも誰よりも、郁のことを一人占めしたい。
そんな隠しているようで隠せていない感情もある。だけど同時に柴崎から貰い受けるような、そんな眉をひそめたくなるような感覚があることも事実で。
柴崎と暮らした部屋から旅立ちたいという郁の思いは言わずもがなで。だから二つ返事で了承した。


「柴崎、待ってるんだろ」
時計はもう、21:45を指している。間もなく門限の時間。それまでに郁は滑り込んでおかないといけない。
「うん…」
今日だって一日中一緒にいた。課業後は結婚式の最終打ち合わせもして、晩ご飯も一緒に食べて、ここまで来て。
明日は結婚式本番で。それからは。
ずっと一緒だ。
それなのに。
今日柴崎の部屋に行く、と決めたのは自分なのに、それでも離れることが難くて郁は背中に回した手に力を込めた。
首筋に笑った堂上の息がかかって、胸がきゅうっと締まる。

「堂上教官…あの」
「ん?」

自分は何を言おうとしていたのか。思いつくまま口を開いたは良いけれど、思いが溢れるばかりで言葉になりそうなものが見つからない。
耳元で口ごもってしまった郁の言葉の続きを、時間がない中でも堂上は急かすことなく待った。
辛抱強く待った結果、耳元に届いたのは。

「堂上教官、あたしを育ててくれて、ありがとうございます。たくさん叱ってくれて、たくさんほめてくれて…好きになってくれて、ありがとうございます」
「郁」
「あたし、絶対……教官を、篤さんを幸せにするから」

先程まで言いにくそうにしていた人物と同一とは思えないほど、はっきりと。凛とした声で、それは堂上に届いた。
プロポーズしたのは自分で、それはプロポーズしたとも言えないような方法だった。
けれど郁は――――あまりにもストレートに、あまりにも郁らしく、伝えたかった言葉をぶつけてきた。結婚前夜に。

額を肩に預け、しがみ付いていたのに。
顔を上げ、真っ直ぐに堂上を見つめて、それを伝えた。

―――――参った。勝てる訳がない。

目を見開いた後、堂上にじわじわと広がったのは完全敗北という現実。それを認めると、自然と笑いがこみ上げてくる。
堪えきれず軽く噴き出すと、真剣な顔をして宣言した郁は驚いた顔をして……それから分かりやすく膨れた。
「もッ、もう!人が真面目に話してるのに!」
「悪かった。いや、あんまり嬉しくてな」
「嬉しくて噴き出す人がいますか!」
怒りながらもそっと堂上の表情を覗うと、郁はまた小さな声になって問うた。
「……教官でも嬉しかったり、しますか?」
あまりにあんまりな言葉に、堂上は思わず緩んだ口元を覆っていた手で軽く拳骨を落とす。
「アホウ。だからお前は、俺をなんだと思ってるんだ」
「だって…」
拳骨を落とした手で、そのまま頭を撫でた。ゆっくりと撫で、明日の為に少しだけ伸ばしていた髪を梳き、零れた横髪を耳にかけ。それから頭を自分の肩に押し付ける。

面と向かって。郁のように顔を見つめて言うのは、堂上にはハードルが高すぎる。
だけど、これなら。
だけど、今なら。

「郁」
「はい?」

幸せにしたいとか、生涯愛しているとか、そんな事はもう当たり前すぎて。
ましてや自分が言葉にできる程度の思いなんて小さすぎて。

「最後の瞬間までそばにいろ」

結局口に出せたのはいつもの命令口調のいつものぶっきらぼうな言葉。甘い言葉などこの期に及んでいう事ができなかった。
それでも郁はびくんと体を震わせると、堂上が押さえつけた掌の下で頭を小さく何度も頷いた。
それから言うのだ。「嬉しい」と。「一生そばにいれたら、一生幸せ」と。

泣き笑いのような顔を見せた郁が、両手で堂上の頬を挟んだ。宥めるように、癒やすように撫でながら、
「教官、仏頂面が二割増しです」
照れ隠しのように歪んだ表情を、笑い飛ばした。耳まで赤くなったそれは、見なかったことにして。
郁が頬に添えた手の上に、自分の手を重ねる。温もりが心にまで沁みるようで、堂上もようやく微笑んだ。
それからそっと郁に引き寄せられるように、静かに唇を重ねた。




+いつもの夜の最後のキス+




結婚前夜。
たった今交わした誓いを確かめ合うような。
そしてただただ慈しみ合うようなキスを。
月明かりの下で。
その、最後の夜に。





[end]



Lovebirdsのシトロン様から頂戴したSSです。
「図書館戦争」の創作サイト様を巡っていた時に拝読し、一目惚れ&プロポーズ(違)して持ち帰らせていただきました。
素敵なお話をたくさん書いていらっしゃいますので、気になった方はシトロン様のサイトへGO!です。

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